癌の終末期について


 漢方修行をしていたM病院には、大学病院を始め、大病院で治療をし尽くし、もはや現代医学では治療法がなくなり、緩和ケアと看取りを目的に多くの患者が紹介されてきた。

 


 Cさんはそんな中の一人で、肺癌の末期で胸腰椎、肝臓、脾臓などに多発性転移があり、放射線治療も無効なStageIVの患者で、余命1カ月と言われていた。身長158cm、体重34kgと極端に痩せこけ、肺癌そのものによる消耗と度重なる化学療法と放射線治療の試練に耐え続けた痛々しい姿がそこにあった。食事も3割以下しか摂取できず、顔色極めて不良、無表情で四肢蕨冷し、ほぼ寝たきり状態で、余命はもっと短いと思われた。肺癌はもともと私の専門領域だったので、その後どういう転帰をたどるかは大体予想がついた。漢方を知る前の私であれば、疼痛管理と補液、最期は必要に応じてsedationを行っていただけだろうが、当時漢方の修行中だった私は、「どんな患者にも、生きている間はがある(つまり望みがある)」という言葉を支えに、最期まで患者の証を拾うことに集中していた。

証をとってみると、舌は鏡面、苔がところどころ剥がれた地図状舌で、脈は絶っせんと欲し、腹力1/5と極めて軟、腹壁は薄く、心下振水音が著明だった。そこで、脾虚、裏寒少陰病と考え、人参湯と加工附子末を投与した。 


 患者には2人の娘がおり、非常に熱心に看病されていた。前医で母の最期が近づいていることを知った娘達は、最愛の母親のためにお金を出し合い、数カ月前から家を新築し始めた。しかし、完成に近づくほどに無情にも母の病状の悪化は加速していた。そして予後1カ月、新居完成まで2カ月という時点で私の所にいらっしゃった。娘達は言った。「先生、なんとか家ができるまで母を生かしておいて貰えませんか?」心からの叫びだということが、痛いほど伝わってきた。




 「間に合わない、絶対に」と心の中では確信していたが、懇願する娘達には言えなかった。仮に間に合ったとしても、その時は衰弱が更に激しくなり、とても外泊できる状態ではなくなっているであろう。医師にとって無力感を感じる場面は多々あるが、患者や患者の家族の、ささやかな願いにすら貢献できない時ほどそれを感じることはない。私は言っていた。「わかりました。ベストを尽くしてみましょう。食べられるようになったら望みはあります」 


 こうして、患者の寿命が尽きるのが早いか、家ができるのが早いかの激しいデッドヒートが始まった。当然、娘達は一縷の望みを持ち喜んだが、患者は日に日に衰弱が進み、家の落成を楽しみにする余裕などとてもなかったように思う。

そうした家族の思いを乗せて、私が望みを託したのが人参湯に加工附子末を加えた人参湯加附子(附子理中湯)であった。衰えた脾を補い、温め、気力を高める目的で処方した。


 数日後、患者は言った。「この薬は、今までに飲んだどんな薬よりも腹に染み渡り、効いているという実感がします」
。そう言った患者の目には、かすかだが力が宿り、訴える声にも力が出てきたのを感じた。


 そして、転院して1カ月。看護師の報告。「食事は3食ともほぼ完食、体重は39kgと入院時より5kg増加。昨日は車いすで院内自走していました」
。すっかり顔色が良くなった患者は、回診時に笑顔を交えながら会話を交わすことができるようになっていた。予想以上の結果に私は胸をなでおろし、娘達も落成間近となった家に初めて外泊するスケジュールを相談していた。そして元気を取り戻した患者も、娘達が作ってくれた新しい家に行くことを心待ちにするようになった。そして1カ月半が経った時、工期を極限まで縮めた結果、家は完成した。そして家族3人して笑顔で23日の外泊に出かけていった。願いはかなった。間に合ったのだ。

 


 外泊から戻ってきた患者には疲労の色が隠せなかったが、この上なく満足した表情のようにも見えた。娘達は何度も「ありがとうございました。ありがとうございました」と言ってくれた。私は漢方医学に心から感謝した。外泊から戻った後、全ての力を使い果たしたかのように状態は悪化の一途をたどり、入院して2カ月目、肺癌性リンパ管症、DICを合併し永眠された。

 


 たかが予後が1カ月伸びただけ、という見方もあるかもしれないが、その1カ月がかけがえのない時間である場合もある。もちろん、このようにうまく行く症例ばかりではなく、どんなに努力しても、ほとんど効果が得られない症例もある。しかし漢方治療は、あと1カ月(もしくはもっと長く)、その人らしく最期の豊かな時間を提供できる可能性を秘めていると思う。そうした瞬間を求めて、今日も証を追っている。

 


 人参湯は別名、理中湯ともいい、人参湯加附子のことを附子理中湯とも呼ぶ。エキス剤にはない四逆湯を使いたい時に代替として使うことがある。脾虚、裏寒が極まった癌の末期などの消耗性疾患による衰弱に著効を得ることがある。また、急性疾患でも裏寒が極まった少陰病の胃腸炎、水様性下痢に速効することもある。現代医学的に手立てがなくなっても我々にはまだ漢方医学がある。幸いなことである。